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追悼 古葉竹識監督(広島東洋カープ・昭和50年~昭和60年)経歴と動画

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日本プロ野球の日本シリーズの対戦は、ヤクルトとオリックスの久々の対決。楽しみですね!
そんな中、訃報が入りました。カープの名監督、古葉竹識(広島東洋カープ・昭和50年~昭和60年)さんが亡くなられました。監督の経歴とおすすめの動画をまとめました。

古葉竹識氏 監督としての経歴

経歴 ウィキより

古葉 竹識(こば たけし、1936年4月22日 – 2021年11月12日)は、熊本県熊本市西区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。

監督として広島東洋カープを球団史上初のリーグ優勝、日本一に導いた。

退任後は公益社団法人少年軟式野球国際交流協会理事長、全日本大学軟式野球連盟名誉会長、東京国際大学名誉監督などを務めた。

引退後は、南海で二軍守備・走塁コーチ(1972年)→一軍守備・走塁コーチ(1973年)を務めた。二軍時代は藤原満・片平晋作・柏原純一を指導した。一軍に昇格した1973年にはリーグ優勝に貢献し、同年リーグを制した経験から「相手のチームと比較して、自分たちの弱点をどう克服していくか。何が足りないかを考え、改善していく。」という、チーム作りにおいての基本方針を学んだ。

1974年には野村から強く引き留められたが、大学の先輩かつ広島同期入団の森永勝也監督の要請で、古巣・広島に一軍守備コーチとして復帰。1975年には、15試合で帰国したジョー・ルーツ監督の後を継いで5月に監督に就任し、快進撃を見せ10月15日の巨人戦(後楽園)で、球団史上初のリーグ優勝をもたらした。その後も機動力を活かした緻密な野球で1979年、1980年、1984年とチームを3度のリーグ優勝・日本一に導いた。

古葉は、「山本浩二、衣笠祥雄が中心選手として育っていたので、この2人を中心に、どうチーム作りをするかという考え方ができた。」と述べ、キャンプでの猛練習がカープの代名詞になった。高橋慶彦・山崎隆造・正田耕三をスイッチヒッターに養成し、木下富雄をユーティリティプレイヤーに育てた。川口和久・長嶋清幸も育て[1985年勇退。

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勇退後1987年、3年連続でBクラスに低迷していた大洋の監督に就任。チーム成績は低迷、順位は1988年の4位が最高であった。1989年、古葉はシーズン最下位の責任をとり大洋の監督を辞任した。「戦力的には最初の年の10月、エースの遠藤一彦投手が脚を故障したのが響きました。大黒柱がいなくなり、本来は先発4、5番手の投手を軸にしなければなりませんでした。野手では外国人はいい打者がいましたが、全体的に「走」「守」の力が足りませんでした」と退任後に語っている。一方で、1988年に広島の名スカウト木庭教を招聘した。1998年の優勝時の主力でもある広島県出身の野村弘樹、谷繁元信や石井琢朗らは、古葉の在任時に獲得した選手である。古葉は大洋監督時代について「3年間大洋のユニホームを着ましたが、チームを変えるにはやはり5年は必要だと痛感しました」と振り返っている。

古葉竹識氏 おすすめの動画

#古葉監督 #赤ヘル #カープ

追悼 古葉竹識監督【高橋慶彦】【カープ】

https://www.youtube.com/watch?v=xvJJ2k5ueOM

まとめ

追悼 古葉竹識監督(広島東洋カープ・昭和50年~昭和60年)経歴と動画をまとめました。

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