元南海・広瀬叔功さん死去のニュース概要

2025年11月5日、日刊スポーツや共同通信、読売新聞などが報じたところによると、プロ野球南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の元主力選手で監督も務めた広瀬叔功(ひろせ・よしのり)さんが、11月2日午後4時30分、心不全のため広島県内の病院で死去した。89歳だった。葬儀・告別式は家族だけで執り行われ、親しい関係者への通夜は行われないという。広瀬さんは現役時代に「チョロ」の愛称で親しまれ、南海の黄金期を支えたリードオフマンとして知られ、通算596盗塁は福本豊氏(1065個)に次ぐ歴代2位の偉業を残した。死去の報は、野球界に衝撃を与え、X(旧Twitter)では「チョロさんの走塁は永遠の教科書」「南海のレジェンドが…」といった追悼の声が相次いでいる。

経歴

広瀬叔功さんは、1936年8月27日、広島県廿日市市(旧・大竹市)生まれ。身長176cm、体重72kgの右投げ右打ち。地元の大竹高校から1954年にテスト生として投手で南海ホークスに入団したが、すぐに遊撃手、外野手に転向。俊足と天才的な走塁術を武器に、南海の黄金時代(1950年代後半~1960年代)を野村克也氏、杉浦忠氏、王貞治氏らとともに支えた。愛称「チョロ」は、鶴岡一人監督の「チョロ(泥棒)め」の掛け声から生まれたもので、チームメイトの野村氏からは「天才走塁の化け物」と評された。

主な現役成績とハイライト(1955-1977年、南海一筋)

  • 通算成績: 2190試合出場、7637打数、2157安打、打率.282、131本塁打、705打点、394二塁打、88三塁打、596盗塁(成功率82.1%)。2000安打達成(1974年)。
  • タイトル・表彰:
  • 首位打者: 1回(1964年、打率.366)。
  • 盗塁王: 5回連続(1961年42個、1962年50個、1963年45個、1964年72個、1965年39個)。これは当時、盗塁王の表彰がなかった時代に広瀬さんの活躍で正式表彰が始まったきっかけとなった。
  • 最多安打: 1回(1964年193安打)。
  • ベストナイン: 3回(外野手として)。
  • ダイヤモンドグラブ賞: 1回(当時の名称)。
  • 主な記録:
  • 連続盗塁成功: 31(1964年、新記録)。
  • 連続安打: 27試合(1964年、リーグ新記録)。
  • 内外野をこなすユーティリティ性が高く、1970年には投手として1試合登板(自責点0)。
  • 特徴: 盗塁は「勝利のためのもの」との哲学で、無駄な挑戦を避け、成功率を重視。リード幅3.80mという異次元のスタートから、短いスライディングで塁を陥れるスタイルは、福本豊氏すら「広瀬さんの走塁術には及ばない」と認めるほど。南海の「三悪人」(広瀬・野村・杉浦)と呼ばれ、チームの攻撃の起点として110得点(1964年)を記録した年は、打率首位と盗塁王の二冠を史上初で達成。

引退後(1977年)は、1978-1980年に南海監督を務め、通算136勝227敗27分け(勝率.375)。低迷期のチームを再建しようとしたが、成績不振で辞任。1981-1990年にNHK・日刊スポーツの野球解説者を務め、1991-1992年にはダイエーホークス(南海後継)の守備走塁コーチに復帰。大野久氏(42盗塁王)、佐々木誠氏(首位打者・盗塁王二冠)らを育て、チーム盗塁数を141に伸ばした。1999年に野球殿堂入り(選手表彰)。

スポンサーリンク

ニュース解説

このニュースは、広瀬さんの死去が5日になって報じられたため、即時性が高く、野球メディアを中心に速報が広がった。日刊スポーツの記事が象徴的で、「5年連続盗塁王など歴代2位の596盗塁 愛称チョロ」とタイトルに据え、現役時代の華々しい活躍を強調。一方、共同通信や読売新聞は「南海の黄金期を支えた盗塁王」と監督時代も含めた功績をバランスよく伝えている。X上では、追悼ポストが急増し、野村氏の「天才」エピソードや、1964年の日本シリーズ(対巨人、広瀬さんが出塁で活躍した場面)が再共有され、世代を超えたファンから「走塁の教科書が去った」「チョロの盗塁動画を今見ても神業」との声が目立つ。

背景として、広瀬さんは近年、広島在住で静かな晩年を送っていたが、心不全の詳細は非公表。89歳という高齢死で、突然の訃報ではないものの、南海OBの減少(鶴岡氏、野村氏らに続く)と重なり、球団史の終わりを象徴する。ソフトバンク側は公式コメントを出さず、家族の意向を尊重。報道の焦点は「盗塁のレジェンド」像で、現代のデータ野球時代に「成功率重視の走塁哲学」が再評価されるきっかけになるだろう。一方で、監督時代の苦労(球団オーナー・正力松太郎氏との確執)も触れられ、単なる英雄譚ではなく、多面的な人物像を描いている。

広瀬さんの死は、プロ野球の「走塁文化」の衰退を思い起こさせる。盗塁王が5連続だった1960年代は、広瀬さんの活躍で表彰制度が生まれ、福本氏の1065盗塁時代へつながったが、今はデータ分析で「リスク回避」が主流。ニュースは、そんな歴史の橋渡し役だった広瀬さんの遺産を、ファンに再認識させる役割を果たしている。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください