日本の歴史が好きな人にとっては、いつも論争になるのが邪馬台国はどこにあったか、という話です。
九州、もしくは畿内?それとも四国?
その論争に影響を与えるであろう新たな研究結果情報が入りましたのでまとめました。
邪馬台国はどこ?畿内説の新たな根拠発表!
邪馬台国の説としては、今まで、畿内、九州、そして四国など西日本を中心として様々な地が候補地として議論されてきました。
ここで、邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡では平成22年に、中心部の大型建物跡南側の穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土しております。
この桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法、という、炭素原子からから年代が推定できる測定法で15個を調査したところ、測定不能の3個をのぞいた12個の種が西暦135~230年の間のものだとわかり、そして、別の研究員の測定でも、ほぼ同様の結果が出ました。
その結果が最近報告されました。
この時期は、邪馬台国の女王・卑弥呼(生年不明~248年ごろ)が国を統治していたとされる年代と重なっており、「邪馬台国畿内説」を補強する新たな研究成果となりました。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100~200年との分析結果が出ているという情報もあります。
邪馬台国九州説研究者の反論は?
今回、複数の機関による年代調査で同様の結果が出たことは重要であり、その年代は魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致し、これまでの調査成果とも合致しています。これは邪馬台国畿内説を裏付ける根拠の一つとなりそうです。
一方、「九州説」をとる研究者は、桃の種だけでは参考にしかならないし、年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならない。邪馬台国がどこにあったのか、という論争とは別の話であると反論しています。
卑弥呼の邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡について
纒向遺跡は、奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。初期ヤマト政権の首都で、魏志倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされています。
纒向遺跡には卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳など最古級の前方後円墳6基が集中しています。
さらに、弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が発見されています。これによって、整備された都市だったと考えられている。また、東海地方や吉備、出雲など全国各地の土器も出土しており、全国から人や物が集まってきた場所であることを裏付けています。
まとめ
新たな遺跡での桃の種の研究結果により、邪馬台国が畿内にあったという説が有力になってきました。
しかし、九州説をとる研究者はそれだけでは不十分とし、今後も邪馬台国論争は続きそうです。
出典
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html